▲東京アイヌ学会

2016年11月19日 (土)

東京アイヌ学会について。

東京アイヌ学会について。

アイヌ民族文化研究センターだより NO.40
(2014年3月)に
 《「北方文化展」と「東京アイヌ学会」に関する資料》というものがあります。久保寺逸彦資料を紹介下記事です。

http://ainu-center.hm.pref.hokkaido.lg.jp/HacrcHpImage/05/pdf/05_003_no40.pdf

その中に、「東京アイヌ学会」設立の記事があるのですが、年代は昭和11年となっています。

北斗も「東京アイヌ学会」に参加しているのですが、その「第二回 東京アイヌ学会」は大正14年3月ですから、昭和11年に設立されたものは、その後身なのか、もしくは、一旦立ち消えになったものを復活させたものか。

北斗が参加したのは勉強会といった雰囲気だったのですが、昭和11年設立のものは、百貨店の白木屋でアイヌ文化の展示なども行ったそうです。

会長が金田一京助、役員に久保寺や知里真志保の名前があります。


 

2013年2月11日 (月)

「柳田先生の思い出」沢田四郎作

 「柳田先生の思い出」沢田四郎作

(前略)

 この年の五月二十七日もお誘いをうけて、北方文明研究会に行ったが、当日は台湾帝大総長幣原坦博士、フィンランド大使のラムステッド博士も出席され、金田一京助、中道等、樋畑雪湖、松本信広、今和次郎、三淵忠彦、有賀喜左右衛門、岡村千秋、谷川磐雄の諸氏に御紹介して下さった。この日は鈴木・中道・今氏など東北出身の方々を囲んで男子のみによってなされる職業やオシラ様の話が中心であった。この日金田一先生はアイヌ人の違星という青年を連れて来られた。この人は間もなく二十七才の若さで亡くなったが、この青年について、金田一先生がお書きになった昭和四年四月十五日の東京日日新聞の切抜きを保存している。

(後略)

2013年2月 9日 (土)

『伊波普猷全集』

『伊波普猷全集』 第十巻に、北斗の記述あり。

『奄美大島民族誌』「跋」

 奄美大島を訪れたことのある人は、其の住民(中略)を見て、アイヌを聯想したであらう。
(中略)
 一昨年の秋頃であつたか、アイヌ学会のあつた時、(中略)晩餐の時、私の向ひに眼のへこんだ毛深い青年が坐つてゐたのを見て、大島の人とばかり思つてゐたところが、あとでこの青年が違星[北斗]といふアイヌであると聞いて吃驚した。そして其の演説を聴くに及んで、其の発音や語調が大島の人のそれにそつくりだつたので、二度吃驚した。私がまのあたりアイヌを見て、其の話を聞いたのは、此が初めてだつた。違星君には其の後も屡〃会つて、其の発音や語調を観察したが、彼がアイヌの部落中で、最も日本化した余市のアイヌで、しかもその母語を全く話すことが出来ないと聞いたので、其の発音や語調は、ことによると、近所にゐる和人の影響を受けたものか、さもなければ、彼の個人的の特徴ではないかと思つて、他のアイヌのそれを聞く機会を待つてゐた。昨年の秋、アイヌ向井山雄を歓迎する為に、アイヌ学会が開かれた時、私は半ば好奇心に駆られて、出席して見た。向井氏は胆振の有珠の酋長の子で、バッチラー師の下で働いてゐる宗教家であるが、その顔附が大島の上流社会の紳士そつくりだつた。しかも其の発音や語調が、違星君のより一層大島的であるのを聴いて、面白いと思つた。これは恐らく今日まで何人も気づかなかつたことであらう。かくもかけ離れた所に居る両民族の間に、かくも著しい類似の存するのは、たゞ不思議といふの外はない。これは果して偶然の一致だらうか。(後略)

 これは、内容的には「目覚めつつあるアイヌ種族」と一致しますね。
http://www.geocities.jp/bzy14554/mezame.htm

 ただ、伊波普猷と北斗が初めて出会ったアイヌ学会は3月19日、「一昨年の秋頃」というのは間違いではないかと思います。
 その次に書いてある、向井山雄の出たアイヌ学会のことは、金田一から北斗への手紙(昭和2年4月26日)にも書いてあります。
 向井山雄は大暴れしてしまいます。
 http://www.geocities.jp/bzy14554/tegamikindaichi.htm


※08/10/30のブログから、サルベージ。

2009年5月 1日 (金)

日本巫女史

北斗が東京時代に親交のあった民俗学者・中山太郎の著書『日本巫女史』に北斗についての記載があります。

第一篇 第七章 第二節

(略)

アイヌ民族の間に行われている神標(カムイシルシ)の信仰は、極めて神聖なるものであって、家長以外には絶対に知らせぬ事として、今に厳重に秘密を守り、家長が死ぬときに始めて相続人に告げ知らせるほどの大切なものであるが、然もその神標(カムイシルシ)とは、死者に持たせてやる其の家の合標(アイジルシ)であって、アイヌは死人が出来ると、急いで家々に伝わる神標(カムイシルシ)を木の板に彫り付けて死者の肌に付ける。これさえ持って往けば、霊界において祖先が己れの子孫であることを知って保護してくれると信じているのである〔二一〕。
(略)

〔註二一〕
アイヌに生れて和歌をよくした故違星北斗氏から承った。猶お此の機会に言うが、アイヌ民族は立派にトーテムを有していて、今にその信仰を貽している。而して違星氏の談によれば、そのカムイシルシを見ると、本家、分家、新宅などの関係がよく判然し、更に溯ればその家々のトーテムまで判明するとのことであった。故違星氏は、手宮駅頭の古代文字と称せらるるものは、アイヌのカムイシルシであるとて、此の研究にも手を着けられていたのであるが、完成せぬうち宿痾のために不帰の客となられたのは遺憾のことであった。
 

(引用元HP)巫研 Docs Wiki
 http://docs.miko.org/index.php/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

 

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2009年4月25日 (土)

歴史地理教育

O先生から教えて頂きました。

歴史地理教育2009年3月号(増刊号)
「まるごと学ぶ北海道 ――アイヌ・歴史・暮らし――」に、「沖縄教育」誌に掲載された違星北斗の未発見文書に関連する記事があるとのことで、取り寄せて読んでみました。

 掲載されている「違星北斗に出会った伊波普猷」(近藤健一郎、全2ページ)によると、

 沖縄県教育会機関誌『沖縄教育』第一四六号(一九二五年六月)にアイヌ青年違星北斗による「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」という論考が掲載されている(沖縄県立博物館・美術館所蔵)。この論考は『沖縄教育目次集』(那覇市企画部市史編集室、一九七七年)に掲載されていたものの、雑誌の所蔵が不明であったため原文は知られずにいた。

 なるほど。この「沖縄教育」に関しては、沖縄の図書館の蔵書検索をしてみたりしてたんですが、見つかっていませんでした。あるところには、やっぱりあったんですね。

 北斗の言葉も引用されています。

「アイヌが日本化することを無上の光栄とするは誠に美しい人情であつて真にそうある可きでありますが、それがためにアイヌ自身を卑下するに至つては遺憾千万である。アイヌを卑下しては永遠にアイヌ民族の名を挙げることは出来ない。アイヌ自身が自重して進むことである」

さて。

「歴史地理教育」のこの記事には、一枚の写真が掲載されています。

 キャプションは

《違星と伊波が出会ったアイヌ学会(1925年)において、違星による墨絵に出席者が寄せ書きしたもの。
「伊波普猷」の名も見える(『沖縄教育』)》 
 
 とあり、細長い紙の下の方に囲炉裏端に座っているアイヌ男性の絵があり、上の方に小さくて判読できないですが、寄せ書きがしてあります。

 これは、伊波の「目覚めつつあるアイヌ種族」にも書かれている寄せ書きでしょう。

「目覚めつつあるアイヌ種族」(『伊波普猷全集』より)

《あとで金田一君が違星君は画も中々上手であるといつて、アイヌの風俗をかいた墨絵を二枚程出しましたが、なるほどよく出来てゐました。博文館の岡村千秋氏が、北海道の内務部長に自分の友人がゐるが、この絵に皆で賛を書いたり署名をしたりして、奴におくつてやらうぢやないか、さうしたら、アイヌに対する教育方針を一変するかも知れないから、といつたので、中山氏が真先に筆を走らして、「大正十四年三月十九日第二回東京アイヌ学会ヲ開催シ違星氏ノ講話ヲ聴キ遙ニ在道一万五千ノアイヌ同胞ニ敬意ヲ表ス」と書き一同の署名が終りました。私は所見異所聞違此心同此理同といふ文句を書添へました。(中略)先日博文館の編輯局に寄つた時、違星君の絵に皆で寄せ書きをしたものゝ写真を貰つて来ましたので、一枚送つて上げますから、雑誌の口絵にでもして下さい。》

 ここに出てくるものでしょうね。
 
 掲載されている写真は小さいくてわかりにくいのですが、描かれている絵は、かつて余市の水産博物館でいただいたこの写真の絵とほぼ同じ図案です。(寄せ書きのほうは墨絵なので、すこし感じがちがいますが)。
 こちらの絵には「カムイコニモック(神占)」と書かれていますので、占いの儀式の絵でしょう。北斗がサインをするときの絵のレパートリーの一つなのかもしれません。

(09/04/25)

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2008年11月 4日 (火)

北斗はいつ短歌をはじめたか

 北斗がいつから、短歌を詠み始めたかは、はっきりわかっていません。

 ただ「北斗はバチラー八重子の影響で短歌を詠み始めた」と書いてある本がありますが、それは間違いだと思います。

 草風館の95年版「コタン」で現在確認できる一番古い短歌は自働道話大正十三年十一月号に掲載された次の一首。
 
  外つ国の花に酔ふ人多きこそ
  菊や桜に申しわけなき

 上京前の短歌としてはこの一首のみです。
 では、本格的に短歌を作り始めたのは、東京から北海道に戻って来てバチラー八重子に会って影響を受けたからなのかというと、そうでもないようです。

 大正14年5月1日、伊波普猷は「目覚めつつあるアイヌ種族」で北斗のことを書いていますが、その時すでに北斗は短歌を詠んでいました。

 違星君はあまり上手ではないが和歌でも俳句でも川柳でも持つて来いの方です。

 と、書いています。もちろん、この時点で北斗はバチラー八重子とは会ったことがなく、一度手紙をやりとりしたのみです。

 もちろん、その手紙で八重子から短歌を勧められた可能性があるではないか、という考えもできなくもないですが、これも違うと思います。

 大正15年3月5日の釧路新聞に、北斗のことが紹介されています。北斗がまだ東京にいる頃、歌人として有名になる前で、一人のアイヌ青年として紹介されています。
 北斗の人となりを紹介し、昔は和人への敵愾心に燃えていたが、青年団に入ったことによって、人間愛を知り、今は東京の西川光次郎の元で社会事業に従事している、というような内容です。
 この記事の中に、次のような記述があります。

 是は此の青年の告白で復讐心に燃えて居た時代にノートに書き付けた歌と此の頃の感想を陳べた歌とを相添て道庁の知人の許に寄せて来たが是等は学校の先生、青年指導の任にある人々には何よりの参考資料だ

 つまり、道庁の役人に送られてきたノートには、青年団に入る前の、「復讐心」に燃えていた頃の短歌と、青年団に入り、「人間愛」を知ってからの短歌が書かれているということです。是等とあるので2冊あるのかもしれません。
 この通りだとすると、東京に来る前の余市時代、青年団に入る前からけっこうな短歌を作っていたということになります。

 もちろん、バチラー八重子の影響もあったでしょうし、それ以上に実は、金田一から若き日にともにあった啄木の話をよく聞いたそうですから、その生々しい話の刺激もあって、上京後に本格的に短歌を作り始めたのだと思います。
 
 ところで、その道庁の役人に送った北斗のノートとやらは、どこにいってしまったのでしょうね。
 実はまだ道庁のどこかにあったりして。
 
 

 

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2008年10月30日 (木)

グーグル書籍検索で「違星北斗」を検索してみた

 グーグルに「書籍検索」というものがあり、アメリカの図書館の蔵書の「中身」が検索できるようになっています。
 アメリカの図書館といっても、英語だけじゃなく、アメリカの図書館の中に所蔵されている「日本語」の本の中身も日本語で検索できるようになっており、結構すごいことになっております。

 私としては当然のことながら、「違星北斗」で検索してみましたところ、いろいろと出てきました。

 ただ、たとえば「違星」と検索しても、その名前の前後の20文字程度しか出てこない、あるいはその本の中に「違星」という言葉が含まれているということしかわからない、といったものですので、結局はその本をどこかで探して読まなければならないのですが。

 また、スキャナで取り込んで、OCR(文字認識ソフト)文字化しているのですが、文字認識の精度が低く、正しく「違星」と認識されている場合もあれば、「連星」「迫星」など、違った文字として読まれてしまっているのもあり、似た文字をいろいろ試しながら、現在、そのリストを作っているところです。

 その作業の中で、ちょっとした発見がありました。

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2008年10月24日 (金)

北斗からの手紙(3)昭和3年6月20日

さて、新発見の手紙、3通目です。
週末しか更新の時間がとれないので、なかなか先にすすめませんが、ご勘弁ください。

昭和3年6月20日の消印。
余市大川町違星北斗から杉並町成宗の金田一京助への手紙です。
この手紙は、ちょっと、扱いに困ります。内容がプライベートすぎるといいますか、梅子さんという女性についての記述や、余市コタン内での人間関係に関する記述が多いので、それらについてはおおまかな概略だけのべて、引用はしないことにします。

東京の思出が それから それへと なつかしい日です。
静かな雨が降ってゐます。北海道はお節句 と云ふので となり近所はドッシンドッシンと米を ついてゐる きねの音が平和に ひゞいてゐます。子供らのとって来た熊笹の若葉は ベコ餅 をのせたり 三角に包むにちょうどよい程 のびてゐます。雪のあるうちから 寝てゐた私は もうこんなに伸びた のに 一寸と 光陰あまりに早いのを 一寸と 妬みもしましたが すぐまた、青々生々してる熊笹を愛します。


 「お節句」というのは、五月五日の端午の節句ですね。それを昭和三年当時の余市では、旧暦の五月五日で祝っているようです。この手紙が出された六月二十日は旧暦では五月三日、旧暦五月五日は六月二十二日になります。ちょうど、節句の前の準備をしているところなんですね。
 「ベコ餅」というのは、私は近畿の人間なので知らないのですが、調べると北海道や東北地方の一部において、端午の節句で食べられる菓子で、黒白二色なのでベコ(牛)だからベコというそうです。(鼈甲がルーツという説もあるということです)。
 北斗は4月の末に喀血して病床に伏し、手紙を書いた時点で、約二か月、病床にあるという状況です。

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2008年10月11日 (土)

北斗からの手紙(2)大正15年7月8日

さて、2通目の手紙です。

 宛先は「東京市外阿佐ヶ谷町大字成宗三三二
金田一京助先生」、封筒に書かれた日付は大正15年7月8日、差出人は「北海道室蘭線ホロベツ バチラー方 違星滝次郎」とあります。
 
 北斗は大正15年7月5日夜に東京を発ち、7月7日に北海道の幌別に到着しています。その翌日に書かれた手紙です。
 
 これを見ると、北斗は帰道直後、バチラー八重子のいる幌別(現・登別)の聖公会の教会に寄宿したことがわかります。

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2008年9月20日 (土)

北斗からの手紙(1) 大正14年3月12日ハガキ

 北斗の手紙について、分析してみたいと思います。

 
 まず、最初は大正14年3月12日の日付がある、金田一京助宛のハガキです。北斗が上京したのが2月中頃と思われますから、東京に来て一月経たない頃のハガキです。

 宛先は「杉並町大字成宗332金田一京助」。当時の杉並は、東京市の「市外」でした。大正12年の震災で東京市内が壊滅的な被害を受けたため、人々は郊外へと流出し、東京が拡大しはじめた頃です。
 成宗は現在の杉並区の成田あたりで、成田の地名は1963年につけられたもので、成田と田端の合成地名だということです。
 金田一がこの当時、成宗に住んでいたというのは、「違星青年」にも出てきますね。

 一方、発信者である北斗の住所は「淀橋町角筈316高見沢清」とあります。
 その当時、すくなくともハガキを出した時点では、北斗は雇用者である、東京府市場協会の高見沢清のもとに寄宿していたということがわかりました。
 淀橋町角筈は、現在の新宿区西新宿の一帯。
 北斗が寄宿していたあたりは、当時の地図と現在の地図を比較して推測するに、このあたりだと思います。

 http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.68378575&lon=139.69149754&sc=2&mode=map&pointer=on

 現在の新宿公園や都庁のあたりは当時は淀橋浄水所でした。その浄水所の西に熊野神社があります。これは現在もあります。また当時の淀橋第六小学校がありましたが、それが現在の西新宿小学校ですから、それをもとに考えると、だいたい、このあたりになります。
 
 まあ、一時的かもしれませんが、北斗が東京で住んだ場所がわかったのは嬉しいです。新発見です。
 ここから北斗は、花園神社のそばの東京府市場協会に通い、大久保の希望社に顔を出し、成宗の金田一宅や、阿佐ヶ谷の西川光次郎のところに通ったのかもしれないと思うと、なんともいえない感慨があります。

 いい地図がありました。
 http://oldmaproom.aki.gs/m03e_station/m03e_shinjuku/shinjuku_3.htm

 この地図の左下「玉川上水」と書いてある、その「玉」の字の上に小さく316と書いてあります。
 そこが北斗が寄宿した高見沢邸があった場所であります。

 ちなみに新宿も、この当時は東京市外、豊多摩郡淀橋町でした。こういった淀橋や角筈、あるいは成宗といった、伝統ある地名が行政の勝手で味気ない○○何丁目といった地名に変えられてしまったのは、本当に残念なことだと思います。

 次は内容に入っていきます。

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